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平和主義

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今週の日曜日に、陸上自衛隊新発田駐屯地の創設62周年及び、第30普通科連隊の創立53周年記念式典を見て参りました。

集団的自衛権とかが話題に成っていますよね。それで来賓に招かれた国会議員は何を話すのかに興味が有った訳です。

何人かの国会議員が代わる代わる挨拶に立ちましたが、えっ、これが国会議員の挨拶...?何か当たり障りの無い、通り一辺倒の挨拶で、話題の一つも語れないとは、定数削減を訴える人達の気持ちも分かりますよネ。

しかし、最後の二人は、今話題の安全保障法制に触れ、与党の一員として、国民の命と平和な暮らしを守りぬくことができるように、国政において法整備の実現に向けて力を尽くしてまいる所存ですと、参議院議員自民党塚〇氏。また、民主党衆議院議員黒〇氏は、隊員皆様の命を大切に論戦を尽くしてまいりたいと、それぞれの立場立場で話されてホッとしました。国会議員は主張が出来なければ何にもなりません。

その後、市長の挨拶は、自衛隊を花の根っこに例え、花が咲くのには根っこが必要と、昨今の話題には触れず、自衛隊の活動と活躍に感謝を述べておりました。

昨日は、久々に党首討論会がありました。私もTVで拝見いたしましたが、もはや集団的自衛権なるものを、野党も認めているかの論戦で、平和憲法が揺らぐの懸念を指摘する。

その前に、条約も結んでない国に、かってに自衛隊が進駐して良いのでしょうか?

残念ながら野党から、その論議は聞こえて来ません。米国から来てくれと言われれば、自衛隊はどの国でもノコノコ出かけて行くのでしょうか?

安保条約は国土と国土で結ぶ条約で、お互いの国土を協力して守りぬくものではないのか。

それをないがしろにして、ロシアのウクライナ侵攻を非難出来るのか?中国が、南沙諸島に侵攻したら非難出来るのか?

世界から見れば理由は如何であれ、他国への進駐は同じ事である。

平和憲法を掲げて来たのだと、駐留軍に押しつけられた憲法を盾に、主権国家の憲法改正を自ら行わずに来ていながら、今度は解釈の変更で良いのだと言い始めた為政者達。

世界中何処を探しても、かってに解釈がガラリと変わる条約など、どの国にもありません。

首相は「平和主義、国民主権、基本的人権の三原則は、憲法改正の議論が進んでも全く変える考えはない」と断じましたが、それなら条約を交わした時の理念に立ちかえり、解釈を変える必要はありません。「基を忘れず 末を乱さず」です。

この事は、何度かこのブログでも話題にしておりますが、余りにもご都合主義で、日本人が持つ精神「日本の心」の行動とは言えませんナ。

 


商店街は何処へ

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今月の中日には、商店街連絡協議会の会議と懇親会あり、今週の月曜日に当商店街の定時総会と懇親会が有りました。

各商店街の代表役員が集まる連協も、どなたも出席者がいない商店街も有り、また参加されても1名とか、1~2名で、我が商店街が真面目なのか理事長、私、専務理事と3名が出席。

議題の「百円商店街」、「トラック市」、「雑煮合戦」などなど催し物の経過報告なども有るのですが、なにか、街自体の活気がイマイチなのか参加者も少ないですナ。

商店街から人影も去り、当商店街も総会の席で、理事長が本年度組合員数が6軒減って42軒に、全盛期の1/3程になったと発言。

数年前に華やかしい頃の50%を割り込んだが、アッと云う間の出来ごとか。

商店街は、父母が商っていた戦後復興期から高度成長期にかけて数が増え、いわゆる地域の人々が集まりやすい一等地で商売をするなど、「町の顔」として存在感や、祭りを開催するなど地域活性化の担い手、地域コミュニティを形成する「場」として地域に貢献してきました。

その後、街中にも大型店が数店出来、競合する様になるのだが、1990年代には、「大規模小売店舗立地法」において、商業規制から社会的規制へと転換が行われました。街中から大型店が消え、加えて、モータリゼーションの進展もあり、さらに新潟市のベットタウンとしての機能の高まりで、スーパー、HCを含む郊外への大規模小売店舗の出店が進み、商店街を中心とする中心市街地は空洞化が進んだ訳です。

総会後の懇親会は、会費はいらぬ宴席ですが、出席者は21名と昨年よりまた減ってしまいました。

私のブロックも昔は11店舗の店があったのですが、今はシャッターが閉まり、総会出席者は私を入れて2名だけです。

親睦をはかるためお酌をして廻りましたが、楽しい宴席では商売の商の字は伏せても、売上不振の声がチラリと聞こえて来る。

それはお互い様と言ってはみても、何時もの顔ぶれが減ってしまっては何か寂しいですナ。

商売もヒマになりますと、自宅での久々の池の掃除に重いポンプを持ったり、ブラシングでグツッと腰を痛めてしまい、ガマンしての宴席でしたが、こんな夜はバスルームに浸かり、こんな歌はいかがでしょうか。

ビリーホリデイ   I'm A Fool To Want You   3:25

https://www.youtube.com/watch?v=rejizpNR20A

あなたをほしいなんて馬鹿な私

何度も何度も言い聞かせたわ

また言わなくちゃならないことば・・

ビリーホリデイのCDを湯に浸かり、ひと時の時間を聴き入るので御座いますが、商店街はこのまま枯れ行くのでしょうか?それとも新しい息吹が芽生えるのを待つ事が出来るのか?商店街は何処へ流れ行くのでしょうか。

 

 

 

早慶戦A4ファイル

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幼なじみと二人でネット上にデザイン事務所を立ち上げ、何かやっているらしい末娘が、わが家には1人いるので御座います。

今のところ活躍の場が、東京と地元で、手作りの額縁とか木工製作がある時は、東京から帰郷して自宅のスペースを多いに利用して、二人で事務所兼作業場として利用しているので御座います。

夢を追いかけるのが悪いとは言わないが、果たして安定している職業と言えるのか?4月の末ごろからこちらにに来ていて、居候が1人増えれば朝風呂のガス代やら・・・エェ~と、メーターが上がるわけでして・・・。

早慶戦のバスケのポスターを製作する事になったと、前回の帰郷の時話していて、アイデアの1~2を見せてもらった事がありました。

その時アイデアの一つは、漢字の早慶の文字が中央にデ~ンと飛び出し、レンガを積み上げた様な形で文字が出来ていて、戦いで文字の一角が崩れかけていると云うものでした。

「ヘェー凄いね」「なるほど迫力がある」と私もそうだが、前評判は皆こちらのデザインが良いねーと評判でした。

しかし、ポスターになったのは、WKのデザインの方でした。

よくよく考えれば、主催者に言わせれば、母校の文字が崩れかけていては、イマイチ乗り切れぬと云う事か。

それを表すなら別の場面でと云う事なのだろう。

上記のA4ファイルを「お母さん、お父さんにもだって」と、娘から2枚もらった。

主催者がポスターの他に、告知の為にファイルも作ったのだそうだ。娘が描いたものがこんな形で手元に残るとは思いもしなかった。

何方かポスターの御依頼がありましたらご一報を...まだ、駆け出しでサービス月間中だそうです。

 【告知】第73回早慶バスケットボール定期戦のお知らせ

転覆ばやり?

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世の中を大上段から眺める技量などサラサラ無いが、漠然とニュースなどを見ていて、どう云う事なのか腑に落ちない事柄がある。

ニュースは淡々と流れて行くのだが、ハテ?如何してそうなったのか、つじつまが合っているのか、いないのか?

船舶沈没事故の、大陸での惨事を見ていると、日本人の私からすれば、人命救出に向かうのにどちらの国も、時間がかかり過ぎている。余りにも人命救助をないがしろにして、即人命のもとに駆け寄らず、役人は自分の責任で事故が起きた訳ではないし、指導者は責任部署を叱責で、お役目御免と思っているのか?

和と絆を重んじる日本では考えられない事柄が隣国では起きている。

考える常識が違うのか、日本では被害者家族が現場で救出作業を固唾を呑んで見守る様子がTV中継される。それを国民が見て皆で心配をしている。

大陸ではその現場に向かう被害者家族を阻止する警察官がズラリと並び、行く手を阻む様子がTVから流れて来る。

この世は転覆ばやりか?権力者が中心で物事が動くのか?度量を欠いた態度でなんでも他国(日本)や他人のせいにする。そう云う自己中心的な文化が、かえって自分達を苦しめていると云う事を、そろそろ気がつかないと、国際世論もへきへきするだろう。

油をまいて火をつける様な事をやらなきゃいいのに、これが半島の文化か?怨んで怨んで怨み倒すと云うのが民族自決の原理だから損得勘定が無い。

全国の神社、仏閣に連続油ぶっかけ事件があった。日本人ならこんな事をしないと思っていたが、案の定、在日韓国人として生まれた人間によるものであることが明らかになったが、この男はカルト教団の創始者で、日本に生まれ育った在日の2世にも関わらず、日本社会に感謝の念も抱かずに、一方的に憎しみを膨らませ今回の暴挙に及んでいる。

あと、良く理解できないのが、中国観光客の爆買いである。なぜそんなにお金を使えるのか?

各省が工業団地構想を打ち出し、その人民の為の高級住宅街を開発したが、計画がとん挫した地方の巨額の負債はどうなったのか?

共産主義のお国と言いながら働く民と、所得に1000倍の差があるとは、特権階級の略奪国家か?

ここまで、いきよいよく来た中国だが、数々の外貨不足の徴候が見られると指摘されている。

中国の海外に対する投資は、収益目的の資源開発が、かなり損失を出しているだけでない。地政学的な観点で多額の投融資を、例えば反米国家のベネズエラなどに注ぎ込んできた。しかしこれらもことごとく不良化していると言われている。

またインドを牽制するためにバキスタンに投資を行ったり、ギリシャへの影響力を強めるためギリシャの国債もかなり買ったりしている。さらにラオスにカジノを作って大失敗といった風に数多くのズサンな投融資を行ってきたと、経済誌に語られている。

中国は都合の悪い話が外部に漏れないないよう情報統制している。

 外貨獲得の為の、AIIBも今年末の正式な設立までに紆余曲折が有りそうである。欧州勢の中には土壇場で参加を取り止める国も出てくる可能性がある。

他国ばかりではない。日本も数値が改善したと言われているが、末端まで果たして如何か?

 

 

 

町内役員一年生

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地域の営みも年年歳歳繰り返され、平年の無事を願い、その町の長老たちにより地域文化の伝承が受け継がられて来た。

何時しか御年長たちもバトンタッチの時を迎い、それとなく次の役員を頼むよと話は受けていて、地域のバランスなども加味され、お話が私に廻って来る。

4月の役員引き継ぎの会合には出席出来なかったが、市内の一斉清掃の時に、役員手当があると、年間3千円の手当てが出る。

町内会長はじめ役柄に合わせ手当てがある様だが、名簿とか役割表など手元にはなく、マァ~雑用一般をこなしてくれと云う事なのだろう。

こんどは、町内の催事ごとのお客様にはなってはいられない。設営運営などのお手伝い役が回って来たと云う事に成る。

役員に成ると手当てが出るとは、そんな事は商店街の役員には無く、三千円でもちょとした公から貰うと云う事は初めてだが嬉しいものだ。

これで晩酌の刺身代が出たかと喜んでいた。

今月は町内にある神社の祭礼がある。

町内会長から町内役員各位にあて、『大山祇神社の祭典』ご案内文を、町内会長自ら持参される。

準備が午後1時30分より、祭礼が午後6時00分よりと有り、お初穂ののし袋には、私の名前が御丁寧にも印刷されていた。

そして一言、(中身は)三千円お願いしますとの事。

・・・ハッと息をのむ訳ではないが、例年お初穂は二千円包んでいたが、役員ともなれば、三千円お願いしますと案内文にも記されている。なるほどナー、三千円ただくれる訳がないよなと、一人ナットク。

町内会長が「翌日は、直会(なおらい)をしますから」と私の顔を見て言って行く。

のし袋の裏側を見ると、メモが貼られていて、お願いーのし袋は、再使用いたしますので裏側の封はしないで下さい。宜しくお願い致します、とある。

町内会費のムダ使いはせず、有功利用そのもので有りますな。

昨日、公会堂内にある神社の祭典があり、準備に祭礼にと行って参りました。

準備には何人もの役員が来ていましたし、日曜日と云う事も有り、祭礼におこしになる地域の人々も出足が早く無事終了致しました。

今日も午前中に本祭典が行われたのですが、仕事のため欠席させていただきましたが、6時30分からは直会があり、町内役員一年生として、地域の文化を学んで参ります。

 

混沌とした中か

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今日は朝早くから起きて、日本女子サッカーの活躍をTVで応援した人達も多いのだろう。

商店街は人通りも無く、アーケードのペンペン草も生え、ため息をついてばかりではと、今月の前半は、朝早くに起きてアーケードのペンペン草取りに昨年に引き続き挑戦。

一日目は、人情として自分の店の前からスタート。毎日少しづつ進んで行く。お客の中には、歩道での私との立ち話の中で、商店街をグルリと見渡して、草ぐらい始末したらいいのにと言って、自転車で立ち去る人がかつていた。

商店街の中でも、早朝私の姿を見かける人もいて、刺激になったのか今月の半期に一度の、当商店街アーケード一斉清掃の日に、向かいのブロックは、ナント何人もの人がしゃがんで草取りに挑戦!こんな光景は初めてです。アーケードの掃除も中々雑草まで手が回らないのが現状で、他のブロックはまだまだダ。

御当地の梅雨入りは何時なるのかと、月の半ばは全国的に大気が乱れ、何か落ち着かない気の中に入る。

そんな中、20日の土曜日に、店を閉めてから家内と二人で当市の、あやめ園へ行ってみる。

あやめが丁度見頃に咲き誇り、午後の7時前は日差しも柔らかくまだ明るい。あやめ園は早朝に訪ねる事が多かったが、家族連れで訪れる人々もいて、夕涼みの場所には、良い所と感じてまいりました。

翌日の市民コンサート“2015”は、日頃から音楽活動に励んでいる皆さんによる、市民参加型のコンサートです。昨年に引き続き、楽しみに家内と出かけたのではありますが、観客席は3~4分咲きと云うところか。

同じく市民文化会館で行われる本日の、ライトミュージックコンサートは、日々バンド活動を繰り広げられているアマチャアコンサートだが、行った事はなかったが、家内の行って見る?の一声で、久しぶりにこんなに大きな音を聴いた。

ギンギン、ガンガンに響き渡り、ボーカルも音量の一つか、何を言っているのか年寄りの耳では分からない。

聴いた事のない音楽が、違う世界を繰り広げて行くのだが、若い人たちの音楽が、脳の刺激になったと家内も一言。

近郊にはこんなに多くの愛好者が居るのか、16組の出場者に、ロビーでは弾き語りのコーナーもあった。

今日は、お祭りなので上下に関係なく、音楽をお楽しみ下さいと場内にアナウンスが流れるのだが、第35回目を迎えた会場は、お客は出場チームと共に入れ替わる人達もいて、観客席は1~2分咲きという感じで御座いました。

私達もロックの混沌した中から途中退席しましたが、音楽の世界ばかりでは御座いません。

何時も人生が順風満帆とは限らない。入れ替えた機械が先週トラブルを発生し、思わぬ出費に頭が痛い。このご時世、何時梅雨が明けるのでありましょうか?

混沌とした中から気が晴れるのは何時か。

 

先人の話

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先人と言っては失礼になるか、ご存命の方のお話である。

私が中学生のある時、社会科の授業で先生が「どの政党を支持するか」を次々に指をさし、我々に聞いて来た。

イデオロギーを試されてる訳でもなく、世の中のこととなりを教科書と共に説いたのだろう。

当時、何気なく聞くニュースで、社会党と自民党は、主張は正反対で折り合いが無く、如何いんだろうこの人達は?と、如何にかならんものかと、大人の世界の話だが聞き流しながら思っていたのだろう。

そんな疑問があって、先生に当てられ、中道和合の精神を求め、当時結成されたばかりの「民社党」と答えた覚えがある。

今は、良くは覚えていないがクラスの中で、民社党と答えたのは、後はいなかったか?

民社党の結成趣旨もわからず奇をねらったか?そんな発言をした事がありましたネ。

そんな程度の認識から社会を学んで行くのだろうが、年代も進み、このブログでも歴史の認識が、真実とかけ離れいるのではないか?そんな人々の見識を見れば、これはチトおかしいのではと気に成り、色々調べる事に成る。

そんな中、元民社党委員長 塚本三郎氏の話を、口を濁さぬ切り口の良さを、当時漠然とTVで眺めていて、如何云う人なのか調べてみた。

今の民主党は昔の社会党と同等か?いつから反米で非武装中立になったのか、あの鳩山由紀夫氏だって日米安保は重要だと言っていた。

そんな中、塚本三郎氏の2008年の講演内容から一部抜粋。

 敗戦によって、戦争のすべての責任を、日本の侵略と押し付けた「東京裁判」は勝者による、敗者への復讐劇であることは、年を追うごとに明らかにされている。

しかし、反政府で闘って来た、社会党委員長の村山氏を、自民党が政権復帰のため、苦肉の策として、ことのいきさつから、日本政府の首相に迎えた。

村山談話のポイントは、先の大戦を「国策の誤り」と明確に認めた上で、日本の「植民地支配と侵略」により、「とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」として、「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」したことである。

村山内閣以降、歴代内閣は、村山談話を基盤として、近隣アジア外交を展開してきた。麻生内閣もこれを踏襲する考えを表明している。
中国や韓国が、日本国相手の対立とあれば、侵略と主張し続ける事情はわかる。

しかし、当時、朝鮮半島が、合法的に日本国家となっており、その日本国の一部を脅かす支那東北、即ち満州は、国民党政権の、孫文や蒋介石政権の、統治の及ばない地域であった。

孫文は 当時、潰州の独立は致し方とさえ考えていた。そして、馬占山や張作霖の跋扈する域外の地であった。しかし、日本の満州進出は、満鉄を中心とする付近の町に限って米ソをはじめ、世界各各国の承認を得ていたが、満州国の建国については紛争の種を残した。

石原莞爾を中心とする関東軍は、それでは、危険だと考え、僅か十分の一の兵力で、この地を平定して、五族協和(日、朝、満、支、蒙)の満州国の建国を計った。

建国当時、約二千万人の満州国の人口が、13年後の昭和20年には、なんと四千万人に達した。年間百万人を超える人民の大移動は世界史に例がない。この地がいかに平和で、繁栄した国家に発展したことか。

支那事変も、敢えて一方的に日本が侵略したとは言い切れないことは、今日に至つて、ロシアの情報公開により明らかにされた。日本が事変の紛争に巻き込まれ、事変の幾度かの休戦の約束を破られた。ソ連共産主義の干渉に依る、毛沢東の仕業であることも判明している。米国もこれに同調した。

敗戦によって、すべての戦乱の責を日本に押し付けた東京裁判の「対日復讐劇」を、そのまま踏襲している日本政府の見解は、米・ソの情報公開によって、余りにも事実に反している。しかし、事勿れ主義に徹した日本政府は、未だ東京裁判史観に追随している。

政府の一高官である、防衛省の幹部が正論を述べても、政府の発した外交方針に反したとすれば、解任も止むを得ない点はある。しかし、根本が誤っていることを悟るべきだ。

国家と国民の立場を憂いて、正論を説いた栗栖弘臣氏の解任から30年過ぎても、事勿れ主義の日本政府が、古くから誤った歴史認識を改めない限り、高官の解任劇は続く。 
            
今回の解任は、政府の基本方針である手続きと、村山談話に反しているからとすれば、日本国の政府部内には、国を憂うる、勇気のある為政者や高級官僚が居る限り。「解任劇」は際限なく続かざるを得ない。解任する政府も、される愛国の士も双方に傷が付く。

しかし国家と国民が最大の被害を受けることになる。政府の根本的誤りを一刻も速やかに改め、政府自らが、東京裁判の歴史観の誤りを勇断を持って改めなければならない。

昭和26年5月3日(1951年)、米上院軍事外交合同委員会において、占領軍最高司令官マッカーサーは、「東京裁判は誤りだった」と告白している。更に、近年ソ連が情報公開することによって、ロシア内部から日支事変に対する対日戦争の原因等について、また米国からも大東亜戦争について、詳しい内部情報が既に公表されている。
それ等の情報に基づき、多くの愛国の士が、東京裁判で断ぜられた誤りを指摘している。

中国や韓国にとっては、東京裁判史観に基づく歴史認識を恒久化させることは、好都合である。しかし、占領下ならばいざ知らず、日本は60年もこの誤りを、盲目的に追従し続け、国家そのものの存立さえ危ぶまれつつある。政府内部でさえ、この憂国の声を出さざるを得ない「危機を感得して」の発言者を「無法者扱い」する時ではない。

 

元民社党委員長 塚本三郎 コミンテルン 村山談話を斬る! 総理には靖国神社参拝を! 19:01

 https://www.youtube.com/watch?v=BXS_zHrcUnY

 

 

 

久々のサイクリングロード

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昨日は、暑かったですネー。梅雨も明けていないのに全国的な暑さ。

店の中に入れば少しはひんやりだが、外へ出ればムッっとする暑さ。県内29観測地点のうち24地点で35度を超える猛暑日となったと、今朝の新聞記事。

昨日、店も終え居間に上がれば温度計は34度。しかし戸をあけ窓も明けてあれば、少しは風があるのか、そんなに暑さを感じない。(エッ?歳を取って体感が鈍ったのだろうデスッテ!)

やはりドッカリ座ればビールデスネ!とは云っても年々売り上げが厳しくなれば、発泡酒で一杯と云う事になるのだが、この所異変が続いている。

実は、父の日のプレゼントやら、お中元で、チョト珍しいお酒やキリンプレミアム、サントリーザ・プレミアム・モルツをいっぱい頂いた。普段、口には出来ぬビールを家内と頂いて、深い味わいにやっぱり違うわと、二人で感激しているので御座います。

お父さんありがとう感謝の気持ちを贈りますと、色々頂いて、中には、健康に気を付けていつまでも元気にいて下さい。
プレゼントはカメラレンズ型のタンブラーです。タンブラーとして使わなくてもペン立てとして使ってもOKです!と、飲兵衛の親父に贈ってきた。

なるほど良く出来ていて、こんなのが有るのかと感心するのだが、これに口をつける気にもなれず、店のペン立てに利用させていただきました。

さて、飲んでばかりではいけませんなと云う事で、久々にマウンテンバイクを引っ張り出し、郊外へ。

          (工場のポプラ並木)

今は東京へ引き上げた末娘が、私が昔乗っていたマウンテンバイクを納屋から引き出し、2ヶ月ほど前に、「色を変えて良い?」と白ペンキで塗り替え、末娘が乗っていた。

ウオーキングも今年に入りサッパリで、運動不足解消と心身のリフレッシュを兼ね久々に自転車に挑戦。

学生の頃は、サイクリング自転車で一日100㎞前後走り、日本を横断した事も有りましたね。

遠い昔の思い出です。

昨日の朝は、サイクリングロードを往復8㎞走り、郊外の大きな工場まで。

今朝は往復20㎞近く走り「天の原」(てんのはら)を超え「米倉」(よねくら)まで走って来ました。

「天の原」アマノハラでは有りません。地元にこんなステキな地名が有るとは嬉しくなりますネ。

マウンテンバイクはサイクリング自転車と違って、足に負荷がかかるナーの想いで目的の里山のふもとまで、しかし帰りはスイスイペダルはスームーズでした。

平らに見えた道路も少しずつ上っていたんですネ。

           (高い所が臼ヶ森)

米倉で地元の人に「この山はなんと云う山ですか?」聞いたら、「臼ヶ森(うすがもり)」と云う答え。

山ではなく森の名、聞いてみなくちゃ分からない。

おばあさんとの立ち話では昨日、御年長の5人ぐらいの方々が、この里山に入りヘリコプターが飛んで来て救出されたのだそうだ。

こんな所にも事件があったとはね。

のどかな田園風景をこへ、久々の早朝1時間ほどのロード旅で御座いました。

http://yuukinosato-yonekura.jp/?page_id=333

 

 

 


暑い中、前え

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ご無沙汰している御仁から、暑中見舞いのハガキが届く。

こちらも返信のハガキをしたためる。

暑中お見舞い申し上げます。

ご無沙汰しております。月日の経つのが早く感じられる歳となりました。
昨年にも増して、暑さが厳しい様です。お身体を大切にお過ごしください。云々

父上の見舞いに一度、数年前には父上のお通夜に参じた事がある。一人ぼっちになり、寂しくなるばかりだと書面にはあった。

何か弊害があると、気持ちの面でも前に進みづらく、停滞ムードが襲って来る。

恒例の商店街挙げてのサマーフェスティバル2015も、役員会で若手の説明を聞けば、頂いた書面の案内の手直しも多く、まだまだ定まっていない様だ。例年だと商店街合同チラシ裏面の、広告募集も有るのだが、今年は如何なったのか?何の話も無い。

それだけ商店街が低迷してると云う事か?

それは商店街を取り巻く環境が年々厳しくなり、底を打つ状態ではないと云う事か。

なおさら今週末に行われる、2商店街合同のイベントを成功させなければと思うのだが、果たして如何か?

そんな閉塞感から脱しようと、まず身体から鍛えよと、明大ラグビー部監督、北島忠治の精神「前え」を思い出し、毎朝マウンテンバイクでの20㎞強の走破に挑戦している。

サイクリングロードの一角に、この地を詠んだ十返舎一九の碑と云うか、灯篭が立てられている。

「いくとせか杉の並木の青々と 市がさかへたいぢみのの宿」 まさにかつての賑わいを詠んだ一句。

先週の台風が近づいた朝は、郊外へ出ると吹き下ろしの風が強く、中々前に進まない。自転車もヨロケながらもペダルをこぎ前え、風に向かい進む。

農作業している人々は、さすが見かけなかったが、こんな境遇で皆働いていると思うと、「常に全力で相手から逃げるな」「フェアープレーの精神を忘れるな」「正々堂々と戦え」「皆部長の気持ちに成れ」「皆アンパイヤの気持ちでプレーしろ」明大ラグビー部監督、北島スピリットを身体に叩き込む。

肉体ばかりでなく、そのうち精神面も必ず前えと、発散せねばならぬ。

ロードを行けば道端には色々な木々が見え楽しませてくれる。その一部をご紹介。


(天の原の手前)

  
(山内部落へ向かう)

昨日は山内の部落から米倉まで戻って来ると、我が同期が自転車で米倉まで来ていた。

「ヨウ!よく来たなー」と云うと1ヶ月に一度くらいは、ここまで来ると云う。「上からスピード出し走って来るのはヒョットして〇〇だと思って見ていたら案の定だった」と云う。

しばらく歓談後分かれ、一目散に帰宅。

今日はあいにくの雨で休みと言っても、市の胃がん検診日で、夕食は昨日の夜8時以後とらず、水も検査3時間前までで、8時からの検診に早くに受付に並び2番目。

おかげさまで検診は、店の開店前に終了。さて、身体は鍛え直しているのだが、後残るは、頭と、ふところ具合の検診でアリマスナ??

つれづれなるままに

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昨日は、またまた高校時代の同窓生十数名が、同期の息子さんが営むイタリヤ料理店、ラ・ジェンマに集まり、一献傾ける。

久々の顔ぶれだが、顔を見れば思い出す人も50年ぶりと云う人もあり、また、明日が人間ドック入りで今回は残念ながら欠席などと色々で、よくよくは人数も声を掛け合い増やしてもいいのだろうが、呼びかけも店の大きさを考えてか、集まる人数に余り大差はない。

店内は女性客で満席に近い。スゴイなーと思いつつ我々は2階席へ。郊外のお店だが駐車場も車で 溢れている。

同期の御子息のやられている店は、どの店もTVやFM放送などに取り上げられている。ローカルでも番組に取り上げられるとはスゴイですね。

またもコミュニティバスを利用しての郊外店へ途中同期も一人乗車して思い出話に花が咲く。車窓から眺めれば、商店街と違い車の流れはダントツに勝っている。

もはや一杯飲むのも郊外の店でが合言葉に成ったか、近郊から訪ねる人は、交通費は街中も郊外も関係無いと云う事か。

例により席順はくじを引く、会場への途中、涼みがてら二人で書店へ寄ったせいか、ほぼ全員が集まる所だった。

宴も頃合いに成り、個々の近況報告が始まった。

仕事を卒業し、聞けば悠々自適な境遇の人々が多く、週2回のゴルフを楽しみにしているとか、これからの人生ゴルフを楽しむために、500万用意したなど発言する御仁もおられ、スゴイですな、こちらはゴルフのゴの字もしらぬ身。残された人生を楽しみたいと発言が続く。

話が半分終われば私の出番。「話を聞けば皆さんは悠々自適の身でうらやましいかぎりだが、こちらはまだまだ修行の身」と話し始める訳でして、こちらは毎朝金のかからぬ自転車をこいでいると...

だいぶ差がありますナ。

それはそれとして、最後に久々に会った面々の記念写真をお店の息子さんも並んで撮れば、皆良い顔して写っているネー。

ヒロシマ・ナガサキ

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「原爆投下から70年 ヒロシマ原爆展」が先の日曜日まで、当地で開かれていて、家内と見て参りました。

平和祈念資料館までは足を運んだ事が無く、当地に居ながら被爆資料や寄贈された遺品の数々を目にする事が出来、いい機会で御座いました。

昨年は雨の降る中、 広島平和記念式典に参加された、市内各中学校の生徒代表者の感想文が、大きなパネルに顔写真入りで展示されていて10代の少年、少女のそれぞれの思いが語られていました。

原爆被害の特徴は、大量破壊・大量殺りくが瞬間的・無差別的に引き起こされ、放射線による後傷害は、いつ発症するかの不安とともに長期間被爆者を苦しめる。

高度約600mで原爆が爆発すると、爆発の中心はセ氏100万度以上の高温となり、爆心地の中心にいた人は瞬時に黒焦げになった。

原爆投下日、広島死亡者数、約14万人(当時市内にいた人:約35万人) 長崎死亡者数、約7.4万人(当時市内にいた人:約24万人)

只一発の爆弾で、無作為に民間人への攻撃を禁じたジュネーブ条約と国際法に違反する事をやっておきながら未だに米国から謝罪が無い。

 ジュネーブ条約では戦闘によって意識的に非戦闘員を殺してはならぬとありますが、アメリカの原爆投下は一瞬にして21万人を超す日本人を殺戮してしまったのです。

戦後10年…原爆投下に対して抗議文書を送っていた政府は、何故にスタンスを転換させてしまったのか。

どうも日本と云う国は世界の常識とは違い、内に仕舞い込む事が多く、他国の非を突きませんね。

「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」
主語がはっきりせず、まるで日本人が「原爆を落とされる様な悪いことはもうしません」と言っているかのように読める。

実際、東京裁判で被告全員無罪を主張したインドのパール判事が広島を訪れた際にこの碑文を知り、「過ちは誰の行為を指しているのか。原爆を落とした者は日本人でないことは明瞭である」と憤ったエピソードはよく知られている。

当時の事柄を展示しているパネルの中に、目をひく一枚があった。そこには、「助けてあげられなくてごめんなさい」と、大きく記されていた。

◇8月6日 午前10時30分ごろ (爆心地から1.2km)
「下敷きになった子供を救助できないまま、校舎は火災に包まれました。ほおずりをしてあげられるほど、体はほとんど外に出ているのに、片腕が柱と柱に押しつぶされてひきだせなかったのです。『もうすぐ楽になるからね』といって手をあわせました。」

現状を見つめ合う戦争におかれた、子と大人の覚悟が伝わってくる。

写真はレプリカだが、展示している被爆資料の中に、当時の体験談を、寄贈されたスケッチの描かれた手記があった。

 

 

 

自虐史観

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前にもポツリポツリと触れてはきたが、自虐史観から真実の歴史認識へ、戦後70年 のニッポンを振り返るTV番組NHKスペシャルが先月放映されていた。

“豊かさ”の実現を優先するのか、それともGHQ主導で進められた体制から脱し、国家としての“自立”の実現を優先するのか、吉田茂・岸信介という二人の総理大臣に代表される二つの路線がせめぎ合いながら、政権を担い続け、戦後政治を形作って行く。

吉田茂はGHQが「ここに軍事基地を造る」と言えば「ハイかしこまりました」と、云う政治。岸信介は、「それは、チトおかしいいだろう」と、「安保条約改定」に動き始める。

しかし、世間は日本の自主性を選ばず、大規模な60年安保闘争のデモ騒動が起きるのである。番組に解説者として出演していたジャーナリスト田原総一郎は、学生だった当時、「安保条約」反対のデモに参加していたが、条約の内容を何も知らずに参加していたと振り返る。

番組ではそれを掘り下げる内容はなかったが、「安保条約反対」の大合唱の中で岸信介は退陣して行くのです。

GHQの占領政策とは、如何云うことだったのか?

GHQとは、敗戦後の日本を作り変えるため組織されたダグラス・マッカーサーを最高指揮官とする連合国総司令部の事。

占領せず洗脳で弱体化を図る!GHQが行った『日本弱体化政策』とは!?

剣道、柔道、弓道、書道などの「道」がつく日本の素晴らしい文化を禁止した。日の丸、君が代、歌舞伎、落語等も禁止。神社へ集団でお参りする事まで禁止。

国際法において、占領国は被占領国に対して恒久法を強制してはいけないことになっていますが、GHQの占領期間中、日本は憲法改正、教育基本法改正、教育勅語廃止、財閥解体などの政策により占領国から国家の弱体化を進められてしまいました。

3S政策によって、民衆を本を読む習慣から遠ざけ、思考力を奪い、愚民化して洗脳されやすくするという戦略がある。日本では不自然なほど、野球やサッカーがさかんにテレビ放映されている。

戦前は日本にも飛び級制度があったんだけどね。アメリカが廃止させた。科学等の国力を強化する分野で、天才が輩出するのを防ぐためと、ネットでは色々語られている。

米国による日本占領政策は、基本原則である3Rと重点的施策5D、それに補助政策である3Sから成っている。

[3R=基本原則]

復讐(Revenge) 改組(Reform) 復活(Revive)


[5D=重点的施策]

武装解除(Disarmament) 軍国主義の排除(Demilitarization) 工業生産力の破壊(Deindustrialization) 中心勢力の解体(Decentralization) 民主化(Democratization)


[3S=補助政策]

スポーツの奨励(Sports) セックスの解放(Sex) 映画の奨励(Screen)


愚民化政策である3Sは、大衆を娯楽に夢中にさせて政治に関心を向けさせないという効果と、日々の労働の辛さを緩和する鎮痛剤の役割を持っている。

この政策を立案したのは、ルーズベルト政権下でニューディールを実施した、いわゆるニューディーラーと言われる人たちで、彼らは国際共産主義者であり、ほとんどがユダヤ人であった。

日本国憲法草案作りの実務責任者はGHQ民政局次長のチャールズ・ケーディスで、ケーディスの師匠が、第一次大戦後の“十四ヶ条の平和原則”を作成したあのルイス・ブランダイスという関係である。

1945年9月21日 
「日本新聞遵則(プレス・コード)」と「日本放送遵則(ラジオ・コード)」が報道関係者に公表された。

[日本出版法]

第一条 報道は厳に真実に則するを旨とすべし。

第二条 直接又は間接に公安を害するが如きものは之を掲載すべからず。

第三条 聯合国(れんごうこく)に関し虚偽的又は破壊的批判をすべからず。

第四条 聯合国進駐軍にかんして破壊的批判を為し又は軍に対し不信又は憤激を招来するが如き記事は一切之を掲載すべからず。

第五条 聯合国軍隊の動向に関し、公式に記事解禁とならざる限り之を掲載し又は論議すべからず。

第六条 報道記事は事実に即して之を掲載し、何等筆者の意見を加ふべからず。

第七条 報道記事は宣伝の目的を以て之に色彩を施すべからず。

第八条 宣伝を強化拡大せんが為に報道記事中の些末的事項を過当に強調すべからず。

第九条 報道記事は関係事項又は細目の省略に依って之を歪曲すべからず。

第十条 新聞の編輯に当り、何等かの宣伝方針を確立し、若しくは発展せしめんが為の目的を以て記事を不当に顕著ならしむべからず。

 1945年9月29日
「新聞と言論の自由に関する新措置」を発令。連合国に不都合な記事はすべて封じ込められた。

太平洋陸軍総司令部参謀第二部民間検閲支隊内に新聞映画放送部(PPB)が新設され、主要新聞は事前検閲、それ以外の新聞は事後検閲となる。あらゆる形態の印刷物、通信社、ラジオ放送、映画、宣伝媒体に属する他の娯楽も検閲を受けることになった。これにより、マスコミは日本国に対する忠誠義務から解放される。
「削除または掲載発行禁止の対象となるもの」として30項目からなる検閲指針がまとめられた。

SCAPー連合国最高司令官総司令部に対する批判 極東軍事裁判批判 SCAPが憲法を起草したことに対する批判 検閲制度への言及 合衆国に対する批判 ロシアに対する批判 英国に対する批判 朝鮮人に対する批判 中国に対する批判 他の連合国に対する批判 連合国一般に対する批判 満州における日本人取り扱いについての批判 連合国の戦前の政策に対する批判 第三次世界大戦への言及 ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及 戦争擁護の宣伝 神国日本の宣伝 軍国主義の宣伝 ナショナリズムの宣伝 大東亜共栄圏の宣伝 その他の宣伝 戦争犯罪人の正当か及び擁護 占領軍兵士と日本女性との交渉 闇市の状況 占領軍軍隊に対する批判 飢餓の誇張 暴力と不穏の行動の煽動 虚偽の報道 SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及 解禁されていない報道の公表

罪悪感を植え付けるウォー・ギルト・インフォメーション

ウォー・ギルト・インフォメーションとは、日本人に戦争の罪悪感を植えつけ、民族の誇りと自尊心を奪い、再び米国および連合国の脅威とならないよう、無力化、弱体化、させることを目的とした民間情報教育局(CI&F)の計画である。

検閲と民間情報教育局による宣伝が相乗効果を発揮し、戦前の日本人の歴史観・道徳観を変えられた。

1945年12月8日から新聞各紙で『太平洋戦争史』の連載が開始された。連合軍司令部が提供したその記事は、日本軍がいかに残虐であったか、日本の軍国主義がいかに非道であったかを強調する内容だった。『太平洋戦争史』連載開始から一週間後に「大東亜戦争」という呼称は禁止され、日本人の立場による大東亜戦争史観を封印し、連合国の立場による太平洋戦争史観が植えつけられた。

民間情報教育局は『太平洋戦争史』を基にラジオ番組『真相はかうだ』の放送を開始。この番組は名称を変えながら1948年1月まで続く。

さらに、1945年12月31日に民間情報教育局は、修身・国士・地理の授業を即時中止するように命令。翌年4月、文部省は『太平洋戦争史』を国史等授業停止中の教材として使用するよう通達し、太平洋戦争史観が教育現場に浸透することになる。

チョト内容が、ながくなってしまいました。

また、占領下の日本国民に戦争に対する贖罪(しょくざい)意識を植え付けるため連合国軍総司令部(GHQ)が、中国・延安で中国共産党が野坂参三元共産党議長を通じて日本軍捕虜に行った心理戦(洗脳工作)の手法を取り入れたことが英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。

本当は見てほしいのは、軍事外交合同委員会で、ダグラス・マッカーサーが「日本の戦争は自衛戦争」だったと認めた事です。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1951-60/1951_makasa_shogen.html

その話を興味深く伝えているのが、

ダグラス・マッカーサー司令官の告白 1951年5月3日『自虐史観を持つべきは、日本ではなくアメリカ

 また、別の切り口で面白いのが、『連合国総司令部(GHQ)を詰んだ男~升田幸三~』 

また、最近のニュースから、『GHQ工作 贖罪意識植え付け 中共の日本捕虜「洗脳」が原点 英公文書館所蔵の秘密文書で判明

60年安保闘争

http://yabusaka.moo.jp/60anpo.htm

戦後70年に及ぶ、我が国の歴史認識が問われています。国家の岐路に立たせられている日本は、GHQの誤りを是正して、検閲で反論できなかった他国の謀略を破棄し、各国に堂々と語り、将来ある子供たちに、正しい歴史を伝えて行かねばなりません。

決して米国のイヌのままで良い訳が有りません。

孫の顔Ⅲ

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久々の新幹線に乗れば、「本日もJR東日本をご利用いただきありがとう御座います」のアナウンスが聞こえて来る。

前は、たしか「本日はJR東日本をご利用いただき・・・」と言っていた様な気もするのだが、へりくだり挨拶をしていると云うのかもしれないが、余りにも客に媚びを売り、こんな所にも自虐史観的なペコペコ感が出ているとは、JRの自主性を重んじれば、「本日はJR東日本をご利用いただき・・・」でいいだろう。お客もその挨拶で何も文句は無い。

どうも、こんな言葉尻が気になるのは、穏やかさ、人生の潤いを無くした頑固オヤジになったからか?お盆あるいは、終戦記念日と云う季節柄のせいか?

扉の上に有る案内表示装置からは、次の停車駅やら、ニュースが流れて来る。

上越新幹線に乗って何時も思い出すのは、いくつかのトンネルをくぐるのだが、子供の頃、世界で一番長いトンネルが清水トンネルで、果たして今通っているトンネルは?

せっかくテロップがあるのだから「只今、大清水トンネル通過中・・・」とか「長さ第1位は青函トンネル・・大清水トンネル22.2㎞・・位」そんな情報を流せば、チョトした知識が旅の楽しさを増すと云うものだ。

お客へ媚びを売るよりも、地域々々の宝を生かす取り組みを、もっと発揮するべきだろう。それがお客様へのサービスということではないのか。

車窓の景色を追いながら、そんな事を思うので御座います。

息子夫婦に第2子が5日の日に生まれ、14~16日と東京の郊外まで出かけて参りました。

家内は手伝いの為に、3日の日に東京入り、お盆の時期に店を休んで出かけたのは、人生初経験で御座いました。

生まれたばかりの赤ちゃんは、こんなに小さかったか、もはや記憶から消えかけた思い出を、抱っこしながらたどるので御座います。

その日はダイニングキッチンで、息子家族揃っての久々の夕食。皆、にこやかな良い写真が撮れました。

翌日は娘夫婦もお祝いに駆け付け、孫も全員揃い久しぶりのハイタッチ!男共3人と孫4人は近くのグランドで小学生の野球チームの練習を見たり、坂を下り公園までお散歩。途中歩きたくないと愚図る子もいましたが、皆元気が良いですネー。

息子夫婦の住居の窓からは、眼下に墓地が見える。外を眺めれば、お墓参りに三々五々集まる人達が日々募る。

そんな様子を見て一句。

     蝉しぐれ 花も込み合う 墓碑の杜         ダックのパパ

 

私はのんびりとお盆を過ごさせていただきましたが、16日は嫁さんのお母さんとバトンタッチです。

私達は午後別れを告げ、この時期の靖国神社に参拝し帰る事に。

大鳥居を通り、大手水舎で手と口を清め、拝殿まで行くのだが、その途中、境内には、今月の社頭掲示が掲げられている。

天皇陛下の御為に

陸軍曹長 木崎徹治 命    

天皇陛下の御為に、米英撃滅の決戦の大空に悠久の大義に就かんとす。

男子の本懐此れに優(すぐる)無し。

長年の御教訓に遵(したが)ひ死所を得たる徹治は幸福者です。貧苦の中にも良き御教育の道を戴き有難うございました。

徹治戦死の報あるも決して悲しんで下さるな。一日も早く病全快せられ、御母様共々末長く達者で御暮らしの程御祈り致します。

彰介は立派な人間にして下さい。小生の貯金其の外は、弟妹等の教育費に御使用願ひます。

兄上木崎家の更隆を切に御願ひ致します。 弟妹達仲良く身体を大切に勉強して立派な人間になって孝養を盡(つく)すを怠るな。

嗚呼(ああ)、大東亜永遠の平和確立の暁を見よ快なる哉(や)。

徹治

父母様

兄弟妹様
(本文は縦書き)

昭和20年1月3日フィリピンミンドロ島にて戦死 埼玉県北葛飾郡豊野村出身 二十三歳。

戦後70年とはいえ、無念さもあっただろうが、若人の覚悟の強さが胸を打つ。

幾多の御霊、孫の顔を見ず逝かれた幾多の英霊に、頭を垂れ御冥福を御祈りして参りました。

 

昭和天皇御製

国のため命ささげし人々の

ことを思えば胸せまりくる

 

千鳥ヶ淵戦没者墓苑     (昭和三十四年)  

 

追記 : 最初は、「蝉しぐれ 花が込み合う 墓碑の杜」と、主がボケてはならじと、のではなく花がだろうと書いたのですが、花がひとりでに墓石に咲く訳でもなく、人々の気持ちと共に供わるもの。

それで本文も「蝉しぐれ 花も込み合う 墓碑の杜」に訂正。

これで私のガンコさが少しは和らいだか?日本語は他に比べ奥深い。

県都へ

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家内が明日まで新潟三越デパートで行われている「中山みどりフェルトアート展」へ行ってみる?と私に問いかけたのが土曜の日。

家内が楽しみにしていた様だが、色々あって機会を逸していた。

毎週日曜日が定休日と決めた訳でもないが、日曜日に当商店街でシャッターが開いている御店は10軒有るかなし。

今月は休みを多くとったので、休まず営業する選択もあろうが、家内に付き合い県都の街へ。

丁度今日は、某TV局の『24時間テレビ「愛は地球を救う」キャンペーン』で、万代シティは歩行者天国でのフリーマーケットに、軽音楽、フラダンスにと、次々とステージに立つ人達が居る。特設コートでは、アルビレックスBBのストリートバスケットボール。

TV中継終了後、2階ステージ前では、地元高校生と共に、しばたパフォーミングキッズの皆さんも活躍されていました。

 

中山みどりフェルトアート展(画像)」とは、私はどんな催し物か分からず、ついて行ったのですが、行って見て納得しました。

可愛いわんこちゃんのぬいぐるみがズラリ!ペットの一瞬のしぐさ、色々な表情を作品にされている。なるほど精巧に出来ていて、大きな写真に撮って飾られていましたが、作品を写真にすると、大きさがわからず本物のペットと見間違ってしまう。

ペットを亡くされた愛好家の多くは、元気な時の写真が思い出の一つになるのだろうが、写真を見せて作品を依頼されに来る方も多い様だ。感謝の手紙なども紹介されていた。

家にもかつて、愛犬ダックがいて、小さいながらも立体の作品があれば、思い出も膨らむのだろうなーと思いつつ作品を眺めて参りました。

丁度私達が会場を訪ねた時、中山みどりさんも居られて来場者数名と懇談されていました。

帰りしな古町の通りには某吹奏楽団の路上ライブに、男性ボーカリストの歌声が付いて、クールファイブにサブちゃんの歌を熱唱されておりました。これがまたスバラシイ!!

例のごとく県都の街をバスにも乗らず歩きまわった訳ですが、万代橋にさしかかると、土手に風変わりな物が建っている。

「水と土の芸術祭」参加作品「新潟の夢」と云う作品が建てられていて、万代橋を下り行って参りました。

担当者に聞けば、竹材は九州から、貝殻は佐渡からと言うはなしだったが、貝殻は幾つもつりさげられて何か書かれている。貝殻には石巻だかの復興の願いが書かれていてると云う話もある。

 

夜にはライトアップされるそうだが、風が流れると風鈴の様に貝殻が鳴り、すがすがしい音色で新鮮な驚きで御座いました。

台湾の芸術家が造られたそうだが、10月12日までの展示だそうだ。

何か無くなるのももったいない気がしますね。

御神輿巡幸

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数日前に、町内会長から『御神輿巡幸を御出迎えのお願い』の文面が届く。

皆様には、益々ご健勝のこととお喜び申し上げます。

諏訪神社の祭礼につきましては、何かとご配慮を頂き有り難うございます。

さて、本年も下記の通り諏訪神社の神輿渡御ご巡幸がありますので、役員各位にはご多忙のことと存じますが、ご参集のうえお出迎え下さいますようお願い申し上げます。

以上、御案内旁々お願い申しあげます。

御神輿巡幸日         平成27年8月27日(木)

先触れ獅子舞(町内会長宅)    午後6時頃

   御神輿出迎え(本町交叉点)    午後6時15分

   御 旅 所 神 事(町内会長宅)    午後6時25分

こんな文面を配られて来たが、御神輿巡幸とは、巡行とは書かず巡幸と書くのかと、初めて知りました。

もともと天皇、皇后様の乗り物に神様がお乗りになり、お祭りの時に出て来られ、自分の管轄地域の人々のもとへやってきて、地域の災厄や穢(けが)れを吸収して清めます。そして終わればまた神社へお帰りになる。

この練り歩きを神幸祭または神輿渡御(みこしとぎょ)と言うと何処かに書かれていましたネ。

人の話では、宮司たちも神輿と共に朝から地域を巡り、一日に20㎞位は歩くのだそうだ。ヘェーそれも大変デスネ。

今朝は早くから、町内の奉納台輪の「あおり」の音と、掛け声、木遣りが聞こえて来る。

いよいよ夏を彩る祭りが始まった。

夕闇迫る頃、紙垂(しで)で囲まれた御旅所(おたびしょ)の札の立つ一角に、御神輿巡幸をお出迎えし、祈りを上げ、お参りをしてきました。

雅楽では笙(しょう)龍笛(りゅうてき)篳篥(ひちりき)をまとめて三管と呼び、笙は天から差し込む光、龍笛は天と地の間を泳ぐ龍の声、篳篥は地に在る人の声をそれぞれ表すという。

毎年、巡幸に際し三管の音が流れる地域にいて、雅な文化を感じる事が出来る我々は幸せ者ですナ。

 雅楽三管紹介

https://www.youtube.com/watch?v=WS969NFJCks

 

 

 

 

 

 


オカシイ国

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抗日抗争勝利とか、ちょとオカシイ国がありますよね。イヤイヤ私の言っているのは我が国の事ですヨ。

よくマー反論もせず日本のジャーナリズムは、記事を書きますね。

「抗日戦争勝利70周年」を祝う記念式典が始まりました。国旗を掲揚するため兵士が進み出ますが、その歩数は121歩。1894年に起きた日清戦争から今年までの121年間を表していて、式典は「中国共産党による抗日戦争勝利」が強調されました。ちょとオカシクありません?

そもそも日本は、中国に宣戦布告などしていなのだが、英米中ソから発せられたポツダム宣言を受諾し、中国にも降伏したのです。それも中国の代表は、国民党の国民政府だ。

この戦争は、中国共産党の毛沢東が中国国民党の蒋介石を台湾に追いやったのが歴史的事実で、日本が中国に根拠地を置いたのは、日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置しただけである。

田母神俊雄氏の論文によれば、この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。

これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。

これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。

実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936 年の第2 次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。

コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。

我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937年8月15日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。

我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。(引用)

当然として、我が国は戦線布告などする気は無く、しなかったのです。

だから、これまで一度も中国は日本に戦争で勝ったとは言った事がなかった。

それが「抗日戦争勝利70周年」まぁーとか?唐突に出て来た言葉ですね。歴史をねつ造しないと政権が持たないのではと、世界から勘繰られるでしょうネ。

中国は日本に戦争で勝っていないし、中国は「戦争被害者」でもない。どちらかと言うと中国が加害者であって、日本は被害者なのである。

笹川陽平氏のブログの中で、中国のある学校の様子が紹介されている。

国語の授業で、先生は『なんと!』という副詞を使って作文を作るように生徒に言った。

明君はクラスでも成績優秀な生徒、早速次のような文を作った。

「1949年に建国したある国は『なんと!』、建国よりも早く、1945年に戦勝国になった」

勢いにのって、更に一文を作った。

「この国は建国66周年を祝う時、『なんと!』、軍事パレードで戦勝70周年を祝うことになっている」

しかし、発表を聞いた先生は激怒し、明君を教室から追い出してしまったとか・・・。

日本のジャーナリズムは、少なくとも中国の生徒並みに、真実を適切に指摘出来なければなりませんナ。

調査員のしごと

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連日TVからは、関東から東北南部にかけて、記録的豪雨の中で、土砂崩れ、河川の決壊で流される家のある中、住民救助のボートや、ヘリコプターでの救出模様が放映されている。

参議院では「平和安全法制特別委員会質疑」があり、野党の喧々諤々罵倒発言が唾を吐く。

これもまたTVの画面から流れて来る。

そんなさなか、全国一斉の5年に1度の平成27年国勢調査が始まり、当町内の調査を引き受けてくれと、町内会長から頼まれたのが3ヶ月ほど前。

これは先輩諸氏が代わる代わるやられて来た事。今年退職されて町内役員になられた方と、町内の地域を半分づつ担当、分かりましたとお引き受けをした。

アパートの住人や表札の無い家なども有り、前々から大変だと話には聞いていて、昔だったら地域のお隣は誰々が住んでいてと、何処の地域でも皆さん認識されていたのだが、今は個人情報何とかで、守秘義務とかで教えられないとか。

教えられない様な人には、逆に住んでもらいたく無く、あの小さな子は何処何処の子でと、地域で人々を見守って来たのが日本の文化だった。

それを良しとせぬ他国の文化に染められたか?

日本には村八分と云う言葉がある。これもこのブログで触れた事のある話だが、地域には如何仕様も無い変わり者が住んでいる事がある。

たとえばお隣が暴力団だったりして、普段は付き合いは無いが、たとへばお隣が火災に遭うとか、お亡くなりになるとかした時、それは大変だろうとお見舞いに行くのである。

それが日本の社会では困った時はお互い様と、百嫌うのではなく、二分の魂として残されているのです。

説明会の時、役所が参考資料と我々に提出してくるのは、市販されている住宅地図の担当地域のコピーだ。

それを参考に一軒一軒廻る事になる。

色々な書類と共に、国勢調査員に任命しますの総務大臣 高市早苗の任命証がカバンの中に入っていた。大臣から任命証を頂くのは初めての経験。

前もって、『調査区要図』と合わせ『調査世帯一覧』の作成を一軒一軒確認してあらかじめ行うのだが、亡くなられて空家という人家もこの地域は案外ある事が分かる。

今回からインターネットによる回答が可能になり、最初は、インターネットでの回答用紙を先に配り、その回答の無い世帯のみ、あらためて紙の調査票を配布する。

 全ての家を訪問し住民とお話ししたが、今の時代、インターネット利用が多いと思っていたが、ご年長者が多いばかりでなく、若夫婦と同居してる方でも、若者に頼むと威厳が保てぬか、紙の回答用紙を希望する人、若い人でもおカネが掛かるのでインターネットを止めたとか、パソコン、スマホを触らない人も多く、ネットでの回答が3割あれば良い方か?

住民の皆様に会うのに2日かかった。会えない所は朝早くとか、夜伺う事になる。

中には、「ネットで回答しようとしているが、パスワードを入れてクリックすると、ID.パスワードが全部消えてしまう」と言う、「如何したんだろう」?とTELが来る。

さっそく出かけて見てみると、パスワードのアルファベットのOと、数字の0を間違って打ち込んでいる。

そうすると「イヤ~はずかしいナ~」と言いながら「みんなやってみてヨ」と云う事になる。

なかなか大変なのであります。

 

 

 

戦争を知らない子供たち

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 この歌が日本の反戦歌のジャンルに区分けされるのか?

戦争が終わって僕等は生れた

戦争を知らずに僕等は育った

おとなになって歩き始める・・・

こんな歌いだしの歌がありましたネ。出だしは今でも耳に残っています。

フォークソング全盛の頃、時はベビーブームの子らが、青春をむかえ社会へ旅立つ時、経済は高度成長へと向かい始めていたが、実際は風呂も無い四畳半の生活で、未来への憧れと、現実の狭間の中に生きていて、歌が身を寄せる拠り所だったか?

ヒッピーなんて言葉もありましたね。主要な支持層である中産階級には合理的な生活様式をもたらしたが、そのレベルに届かずにいて、主流文化からドロップアウトを図り、なによりも自由と愛という人間的価値を尊重するのだと、カネの掛らぬ原始的な生活に意味ずけし、それが個性だと、床屋代の掛からぬ長髪スタイルで、持ち物と云えば大きなナップザック一つだった。

それが今の最先端の風俗だと、勝手な解釈づけをする人たちが多かったですネ。

平和の歌をくちずさみながら

僕等の名前を覚えてほしい

戦争を知らない子供たちさ  と、歌は続くのだが、果たして反戦歌としてのパワーは響くのか?立ち向かうパワーを導くのか?

最近の学生は、声を揃えて唄う、ということをしなくなった。カラオケでは歌うのだが。我々が若い頃は、何かにつけて声を揃えて唄ったものだがと、どこかに書かれていましたが、連帯感が希薄な時代なのだろうか?

日本には何か歯抜けの所があるのか?社会はどうも一枚岩と云う雰囲気では有りません。これは日本の文化としてはオカシイ状態ではないのか?

面々と続いた武士道、規律、礼節の文化が何処へやらで、GHQの自縛の解けぬままで、何かバランスが悪いですネ。

御前0時を過ぎてからの国会中継である。やっと本音が出たのか?某党の延々恨み節である。

じゃァ最初から言えよ!入口付近でウロウロしていながら、「戦争法案反対」の叫び声だけで、肝心な詰めが無い。

今、発言している事をなぜ詰めて来なかったのか?衆参両議院での審議は200時間を超えている。そもそも安保法の改正には反対と中には入らず、入れば改正を認めた事になると、メンツを盾に「戦争法案反対」のシュプレヒコールを叫んでも、外にいては法案の中身は変えられない。

安全保障関連法の成立により、戦後日本の安全保障政策は大きく転換する事になる。

自民党だけでなく、公明党、新党改革、日本を元気にする会、次世代の党の賛成での可決である。

日本を元気にする会の松田代表は、「法案は、正直言って、問題や欠陥が多いといまだに思っているが、少しでも危険を減らすために、修正協議を自民・公明両党と行ってきた。断腸の思いで賛成したが、自衛隊の海外への派遣に関して、歯止めをかけることができた」と述べていました。

アメリカが勝手に戦争を始めたからと言って、ノコノコついて行くな!の声をかけられる様にした。

少しはまともになったか?

 

『戦争を知らない子供たち』 ジローズ  3:00

 https://www.youtube.com/watch?v=l4JpZvgzA04

地蔵尊ご供養会

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町内会役員各位あてに、会長が『地蔵尊ご供養会』の案内と祝儀袋を持ってやって来た。

時節柄、忙しいだろうが出席してくれとの事。「いくら包めば良いの?」と聞けば3千円との答え、そこでドット笑いが起こる。

例により祝儀袋は封をしないでくれと、このままだと3年は使えると言う。御丁寧にも私の名前入りで、裏には金、参〇〇〇円と印刷されている。

町内の晴れやかな舞台と云えば祭り事なのだろうが、6月には 大山祇神社、8月は諏訪神社の神輿渡御ご巡幸、9月は地蔵尊ご供養会と地域を守り、家内安全、身体堅固、交通安全、商売繁盛などを祈り、又、この地で生きた御先祖を互いに供養し和み合う世界を求める地域の文化が継承されている。

若い頃、町内に地蔵尊の御堂があり、寄り合いで一度、中に入った事があったが、寄進された大きな赤い提灯とか、色々な提灯が幾つも天井からぶら下げられていたのが印象深かった。

小さいながら近くに神社も広場に建てられていて良く遊んだものだ。、私が子供もの頃、その境内には、拍子木で町内に来た事を知らせる紙芝居屋さんのおじさんが居た。

カン、カン、カンと音が聞こえれば馳せ参じ、自転車の荷台の棚に用意された水飴を、小さな棒に巻き付け、赤や白色の最中種(最中の皮)で出来た小さな三角帽子を付けてくれるのです。

当時1個5円、10円も出せば食べた事の無いジャムせんべいの様な?珍しいものもあったが、私の小使いは1日5円でした。

それをしゃぶりながら、紙芝居の名調子を聞き、続きを楽しみに、拍子木の音で釣られ境内に通ったものでした。

今は駐車場となり、その面影が有りませんが、お堂の有った所に地域の交流の場として公会堂が建てられ、お地蔵尊と大山祇神社が公会堂の中に二つ並んで祭られています。

又、公会堂の中には昭和何年だったか?私が撮影した取り壊される前の御堂と神社の写真が飾られている。

昔は地蔵尊は御婦人達の集まりで神社は男衆の集まりと云うイメージだったが、その集まりが数日前の夕刻にありました。

今は役員全員が男性で、お坊さんを呼び最初は小冊子を持ち皆でお経を唱和してきました。

初めての参加で数珠も持たずにお参りしましたが、坊さんは経典を空中でダイナミックにバラバラと広げ、たたむ挙げ方で、最後は参拝者全員の肩にその経典をポンポンと上げて頂き、御利益を得て参りました。

聞けばそれは、大般若経(ダイハンニャキョウ)と云い、全部で600巻有るのだそうだ。

お持ち頂いた大般若経もけっこうな大きさがある。

お経も終われば坊さんを交えて、仕出し屋さんの薄い仕出し容器に入った料理を頂きながら、一献傾ける。

近くにいても普段会えない方や、年代を越え親睦をはかる良い機会で御座いました。

時代は流れ

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何かとせわしなく、御無沙汰をしています。

相変わらず商店街は人影が少なく、それではならじと、当商店街も人集めの為に『軽トラック市』を、数時間歩行者天国にして行う事に。

とれたて野菜、食品、雑貨を商店街に大集合と企画をして来たのだが、当店は当日その日は、孫の祝と重なり、休業で御座います。

同じ商店街で、店主の年齢が私に似ればその家も、孫の祝で閉店とか。

若い時は商売が 第一で、家の事柄は後廻しが普通だったが、歳を取ると営業に粘りが無くなるのか、その気が無くとも商売の優先順位が何処かに行ってしまう。

と、云うよりも歳と共に、また別の役割りが増える事になる。

今週初めの日曜日は、親戚の御子息の結婚式で、久々に弥彦神社界隈まで行って参りました。

子供の頃は、母の実家で良く遊びに来ていた所だが、時間に押され訪ねる機会をついつい逸していた。行けば親戚の方々が集まっていて、御無沙汰の挨拶。仏間に向かい久々に線香を上げ、御先祖様をお参りして来ました。

嫁さん一行も仏壇参りを済ませ、家を出れば集落のおば様連中が、あちこちの路地からお見送りです。天候に恵まれ挨拶を交わし車の中へ。

ホテルの会場から眼下を見れば、もう一ヶ月もすれば紅葉も深くなる神社境内の森林が見える。

1時からの挙式だったが送迎バスで2次会は実家に集合。そのまま杯を傾ける。

親戚の一同は夕刻も迫れば引き上げて行くのだが、ここに泊まる私と、主人と私と同年の二男の話は続く。

子供の頃は二人とは、フナ釣りとか教えてもらい良く遊んだものだが、青春時代以後は、騒ぎ事の時しか顔を合わせる機会はないが、何か懐かしい。

主人は地域の世話役などやっていたか何かで、水森亜土さんと面識があり、亜土さんが越後のソバが食べたいと訪ねて来た事があったのだと云う。会社に「カズオちゃんいるー?」と、丁度外出している時に来て、会社の若い社員は誰が来たのか?誰も分からなかったのそうだ。

家にも来て、だいぶ大きな紙に絵を描いていったそうだが、「あの絵如何した?」と奥さんに聞いていたが、今となっては何処に仕舞ったか分からない様だ。

二男は、大工の見習いから横浜で工務店を起こしたが、息子に一線を渡し、趣味の民謡の唄、尺八に熱が入る。結婚式でも美声を聴かせていた。

尺八が5~6本入った袋を指差し、これで100万円位と聞いて「ヘェー」と感心する。尺八は師匠格で、各地の施設をグループで慰問している。

その会のプロデューサーが東京ロマンチカの プロデューサーと仲が良く、宴席で鶴岡雅義氏と一緒になれば「みっちゃん、みっちゃん」と呼ばれているのだそうだ。

お湯割り焼酎もはかが行けば、思い出話に花が咲く。夜も更け、起きているのは横浜と二人きり。

中には株の話も出た。バブル崩壊後、付き合いで株を買う事になった。もう下がり様の無い建設業界の株、熊谷組の株当時、一株9円を10万円出して買ったのだそうだ。「エェー、〇〇円以下の株は普通買わないぞ?」付き合いで10万円無くなっても良いやと云う気持ちだったそうだ。

「新聞見てみろ」という。今は10万が3800万円を超えている。税金も一杯払ったと言っていたが、株は手つかずのままなのだろう。そう云う人が親戚に居るとはネー。

結婚式から飲み始め、時計は12時を過ぎ床の中へ。

翌日はそんなに悪酔いも無く、御主人のお母さんが居る介護施設にお見舞いと、御親戚2か所に案内され線香を上げ、手を合わせて参りました。

時は流れ、自分の立ち位置が昔と違う事を実感する。

さて話を変えて、国内最大級のジャズフェスティバルが東京国際フォーラムで行われ“国境を越えて、世代を越えて”をテーマに、本格的なジャズのみならず、ジャンルを越えた白熱ライブの模様をBSTVで放映されていたが、私がCDで聞く曲はジョン・コルトレーンとかの時代のものだが、今や東京のステージではジョン・コルトレーンの息子達が演奏する時代である。

そっくり演奏メンバーが世代交代である。気が付けばそんな時代であり、演奏音楽も我々が聴いていた内容のノリと感覚は違いが出てきている。

変化の兆しは、どのジャンルでもあるのだろうが、我々がイメージし楽しんだ音楽とは、何時の時代のものなのか?と感じてしまう。

若い頃、情熱を燃やした感覚とは残念ながら違う。

新しい試みは演奏者の迫力は感じるが、何時しかその音楽に付いて行けず、それが「老い」と云うものか?

自分に残されている、あの燃えた熱狂は今のジャズには無い。

ニュージャズの始まりは感じていたが、その音楽に疲れを感じる様になり、思考をそこで止めれば致し方ない。

求められ表す実態の違いを我々が理解できず、お客様が去って行くのか。

そんな事が全国の商店街の中で、今起きている、似た状態なのだろうか?

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