新政府軍の最大の標的は徳川慶喜であった。ところが慶喜は、鳥羽伏見の戦いで薩長軍に錦旗が翻ると途端に戦意を喪失し、大阪城に詰めていた大勢の兵を置き去りにして、ごく僅かな供回りを連れ江戸へ逃げ帰ってしまった。
それ以来、江戸城も明け渡して謹慎の日々を送っている。
慶喜の首を取るどころか、江戸城攻撃すら、させてもらえなかった薩長のフラストレーションは、もはや爆発をみる以外に収拾できない状況になっていた。そこで慶喜に代わって次の標的にされたのが会津藩である。・・・(最後の決断 より)
上記は、戊辰戦争越後四藩の苦悩をテーマに書かれた渡辺れいさんのある一辺だが、会津藩が長州・薩摩の深い恨みを買ったのにはそれなりの経緯があるのだと、真実に突き進む。
時勢の流れる中、朝廷は新発田藩に対しこれまで勤皇に尽力したことを褒め、今後もなお一層尽力するようにという趣旨の賞詞を与えた。
越後に討伐軍を派兵するにあたって、戦略的に有効な軍事力を持つ味方を作っておきたかったし、新発田藩の場合もまず幕府や大藩への嫌気がある。
それは長い間大きな圧力にさらされてきた外様の小藩としては当然の事であろう。
「勤皇」はその圧力と対抗できる新しい政治勢力であったが、奥羽列藩同盟が成立し、越後諸藩中、独り新発田藩のみ加盟しないのは、いかなる理由なのか?もし異論あらば手始めに事に及ぶぞと、仙台藩、米沢藩、庄内藩らの談判の申し入れがあり、会津藩の謝罪嘆願をはじめ、皇国のため尽力する形を取ることになる。
しかし、真意とは裏腹に先鋒隊を言い渡された新発田藩は、その代償に大きな犠牲を払うのである。越後の各藩が焦土とする中、その選択が城下を戦火から守り、領民の生命、財産を守り切る事になる。
歴史好きの知人がこれを読んでみなと、私のヒマそうな姿勢を見てとったか置いて行った一冊である。
文献を訪ね地域の歴史をひも解くとは、すごい女性が表れたと、読み始めの時、著者名を見て思ったのだが勘違いだった。
新発田藩初代溝口秀勝候は、当初六万石から十二代藩主の幕末には十万国大名として三百年余りをいき抜いてきたことは、並みの苦心ではなかったと思料される。
城壁の石組も威を張らず穏やかな曲線美を訪れる人々に優雅に優しく、今も古き時代を語りかけてくれる。
新発田城は十九万余りの領民の生きるシンボルとしての名城で有り、他と争う素振りなど少しも示していない。(城下町新発田新聞H14.12,2随想より)
新発田藩を取り巻く事情、思いと云うものがひしひしと感じられ面白い。
来年のNHK大河ドラマが「真田丸」主人公は戦国時代を代表する武将、真田幸村に決まった。
ヒーローの登場ということになるのだが、それはそれとして個々自体と云うよりも、今は地域全体の創生や、あり様が広く問われているのではないでしょうか?
外様でありながら取り潰しにもあうことなく、12代にわたってこの地を統治し続けるのである。
そんな歴代には小藩といえどエピソードが数々残る。塩止め事件の井上久助、討ち入りの安兵衛、与茂七騒動の大竹与茂七、30年に及ぶ仇討の久米幸太郎、杉田玄白の父も新発田の出身とか、話題には事欠かないが領民も奮起して新発田藩を擁護するのである。
そして大倉喜八郎の登場となる。
歴代の新発田藩の出来事をたどるだけでも面白い。
激動の中、新発田藩は如何生き延びてきたのか?これを1年間の大河ドラマで、仮称「外様・新発田藩!」なるものを脚本家杉山義法に書いてもらいたいと若い頃思ったものでした。
もはや其れは叶わぬ思いだが、ある地方の小藩は歴代の中で如何領民を守って来たか?そんなテーマにふさわしい地域ではなかろうか。
新発田藩を捉えた書物は多くは無いがそんな中、乙川優三郎著の「露の玉垣」には家臣や領民の生きざまが描かれている。
今月の14日には、300人を超すボランティアが一同に集まり、新発田城の一斉掃除が始まる。
毎年繰り返される、この光景は日本一と言われ、市民のお城への思い入れが伝わって来る。
追記 : 新発田城市民清掃隊で活躍されている御仁からメールが届きました。
作業に入ったら、雨が止みました。南東の風で暖かったです。
殿様の銅像に最敬礼している人もいました。さすが城下町!
受付での最終集計は約700名近くでした。
飛び込みの企業もあり、事後処理は来週になります。
高校生の活躍、指導にあたられた先生に頭がさがります。
定着し、受け皿もあるこの行事、
執行部の運営体制を真剣に考えなければならない時期が到来しました。
これさえクリア出来れば、誇れる行事として永く続いて行くことでしょう。
所で、「決断」読み終えましたか?